2012年01月05日
『3.11を心に刻んで』(岩波書店)
一人ひとりが考えぬき、それが言葉となり行動となりして表れ、ようく交わり、合意に至ってはじめて、全体としての事が決まる。
***
http://www.iwanami.co.jp/311/index.html
『3.11を心に刻んで』私たちは、3月11日の大震災において被災された方々のことを心に刻み、歩みたいと思います。そして、どのような状況にあっても言葉を恃むことを大切にしたいと願い、ホームページ上での連載をはじめることにしました。毎月さまざまな方に、過去から蓄積されてきた言葉に思いを重ねて書いていただきます。毎月11日の更新です。
岩波書店編集部
2011年12月29日
よしもとばななさん
私個人はいつも税金に負われて大金持ちになったことはなく、家は借家、ホテルもいつも最高三ツ星くらいの人生だが、お金持ちにはよく接する。 みんな、お金というものを宝くじに当たったみたいにばーんと入ってきてあとは安心、というイメージでとらえているが、それは違う。お金とは、植物や子どもを育てるように絶え間ない管理があってはじめて安定するものなのである。だからお金がたくさんあれば、一生マメな管理の苦労がつきまとう。そして、健康も結婚もみんなそれと同じと思う。ある高いステージがあってそこに行けさえずれば安泰、というのは幻想で毎日こまめに調整し、注ぎ、手足を動かしてやっと管理できたり安定する。だからこそ毎日のことに愛情を注げる人が多くを持つ人になるのだろうと思う。
間断ないめんどうくさい果てしない作業の連続が、人々が言う「幸福」と呼ばれるものだ。怠ればすぐに失う。ダイエットだっていっしょだ。楽して得られるものはこの世になにもないし、それを体で学ぶために、その可能性をさぐるために、人は生まれてくるシステムになっているのだと思う。絶え間ない日々の管理の苦しみの中に幸せを見つけることができるのが人の力だ。本気で農業をやっている人に聞くと、みな収穫は格別の喜びだが、日々作物に接している自然との対話のほうがほんとうの喜びだと口を揃えて言う。腰が痛くても果てしなく雑草が出ても虫と闘っても、毎日の終わりが幸せだと。次のステージに楽があるというのは全くの幻想だ。今、目の前のことだけだと思う。だれにだって不幸な日はあるし、その連続はある。その中をかいくぐっていく闘いの重さこそが、一般に言う幸福(結婚、育児、お金、仕事、人間関係での成功など)の現実、真実だと思う。恒常的な幸せはない。もちろん幸せになんてなりたくなければならない自由さえある。
全てが流れうつろっていくこの世で、なにかをキープするということは、本体が常に微妙に動いていなくてはならない。それは物理的にも当然な法則だと思うので合ってる気がする。キープしながら、肉体の終わりまで毎日果てしなく微調整をする。それが人生。そのたいへんさに対応する二パターンは,ためて楽してまとめて大変さを味わうタイプと、自分のドラマの中に逃げ込むタイプが代表的だ。だれでもたいていそのどちらかに偏っている、そのくらい大変だがやりがいのある仕事を毎日生きてるだけで人はしてるのだろう。みなさん、一年間ありがとうございました。よいお年を、よい年にしましょう。
補足。人間の真の可能性とはその二パターンから離脱した人生を歩もうとすること。それさえ間断なく調整することが必要。「間断ない日々の調整、今ここ、しかない」という人間のあり方は、心臓が間断なく動き、呼吸を数分止めただけで死んでしまうこの肉体のシステムからして理にかなっていると思う。
今書いたことの種をそれぞれがどこかで芽吹かせてくれたらと思ってシェアしました。新しい年になればなんでも解決することはなく、間断なくなにかを解決して私たちは進むでしょう。でも希望を!
間断ないめんどうくさい果てしない作業の連続が、人々が言う「幸福」と呼ばれるものだ。怠ればすぐに失う。ダイエットだっていっしょだ。楽して得られるものはこの世になにもないし、それを体で学ぶために、その可能性をさぐるために、人は生まれてくるシステムになっているのだと思う。絶え間ない日々の管理の苦しみの中に幸せを見つけることができるのが人の力だ。本気で農業をやっている人に聞くと、みな収穫は格別の喜びだが、日々作物に接している自然との対話のほうがほんとうの喜びだと口を揃えて言う。腰が痛くても果てしなく雑草が出ても虫と闘っても、毎日の終わりが幸せだと。次のステージに楽があるというのは全くの幻想だ。今、目の前のことだけだと思う。だれにだって不幸な日はあるし、その連続はある。その中をかいくぐっていく闘いの重さこそが、一般に言う幸福(結婚、育児、お金、仕事、人間関係での成功など)の現実、真実だと思う。恒常的な幸せはない。もちろん幸せになんてなりたくなければならない自由さえある。
全てが流れうつろっていくこの世で、なにかをキープするということは、本体が常に微妙に動いていなくてはならない。それは物理的にも当然な法則だと思うので合ってる気がする。キープしながら、肉体の終わりまで毎日果てしなく微調整をする。それが人生。そのたいへんさに対応する二パターンは,ためて楽してまとめて大変さを味わうタイプと、自分のドラマの中に逃げ込むタイプが代表的だ。だれでもたいていそのどちらかに偏っている、そのくらい大変だがやりがいのある仕事を毎日生きてるだけで人はしてるのだろう。みなさん、一年間ありがとうございました。よいお年を、よい年にしましょう。
補足。人間の真の可能性とはその二パターンから離脱した人生を歩もうとすること。それさえ間断なく調整することが必要。「間断ない日々の調整、今ここ、しかない」という人間のあり方は、心臓が間断なく動き、呼吸を数分止めただけで死んでしまうこの肉体のシステムからして理にかなっていると思う。
今書いたことの種をそれぞれがどこかで芽吹かせてくれたらと思ってシェアしました。新しい年になればなんでも解決することはなく、間断なくなにかを解決して私たちは進むでしょう。でも希望を!
チベット医学のシャンプー
ダラムサラのメンツィーカン(チベット医学占星術学院)で購入したヘアシャンプー、黒くどろっとしてほんの少しで足りる。洗髪後はさっぱりさわやか、頭皮に優しい感じ。材料を厳選して良心的に作っているので、ほとんど儲けがないって学生さんが心配してた。
2011年12月24日
ウーム大丈夫
心に拠りどころが無いということは人を不安にし、頼るべからざるものに迄しがみつく原因である。殊に最近の金詰まり、徴税恐
慌の時代にあっては何人も安心して生きている訳にはゆかない。新興宗教の流行も故無きではない。洪水、火事、台風、そういふも
のも次から次へと来る。
心を余程しっかり保っていないと、心が風に吹かれ、水に浸され、火で燃えてしまふ。心の中心にもしウーム大丈夫をおけば、
その心は火に焼けず水に溺れず、風に動じない。不景気も税金も冒すことが出来ない。多くの人の心からウーム大丈夫が去って、ナ
アニ大丈夫といふような根の無い空想への逃避や、マア大丈夫だらうといふ僥倖頼りしか無い今日にあっては、心の中に ウーム大丈夫 といふ中心をおく必要があること明瞭である。
「ウーム大丈夫」とは下腹に息を吸込んで丹田を満して大丈夫と念唱することである。之をくり返していると、何事かに出会ふと腹の中からウーム大丈夫と力強い言葉が湧いて来る。こうなれば何でも出来る。どんなことが起こっても不安は無い。どんなことであっても一番悪いのは絶望と不安と焦燥であって、中でも絶望は死への道である。
明るい太陽の光迄が灰色になってしまふ。貧も病も辛いものには相違ないが絶望程に人を痛めない。失敗も煩悶も、絶望が無ければ人を活す道となる。
正座して腹へウームと息を吸込んで丹田の気力を満して大丈夫と念唱しよう。
腹の中に大丈夫を容れて、心を静かに乱さず生くる事が全生の道である。大丈夫とは正を踏んでおそれず、義を見て退かず、愛に溺れず、慾に迷はず、天下の広居にあって天下大道を行ふ。浩然の気もこの裡にあり、綽々たる余裕もこの裡より生じ、泰山の動かざる信も又この裡にある。大丈夫とは不安無く悔無く、希望の輝ける理想の啓かるる伸び進んで止らざる人の心をいうのである。
それ故迷ふことあるとき、悩むことある時、苦しい時、乏しい時、虚なる時、不運なる時、ウーム大丈夫と腹の中で念唱して見よ。
忽ち迷ひ去り、悩み去り、苦去り、貧去り、虚去り、安心と希望と財福と健康が訪れる。大丈夫の腹にある時は心を乱すものは何ものも近づかない。天変地異も、虎狼も矢弾も、不幸も欠損も心に這入らない。
何故かといふと心は雰囲気を造り、雰囲気は物理的な力となってそれのもつはたらきを発揮する。繁盛の雰囲気は繁栄を造らうし、愉快な雰囲気は愉快な人を多くする。念ずれば現じ、思へば在る。人間は自分の境涯を支配している。境涯とはその思考の反影に他ならない。その思ふが如き人生に人は生きている。ウーム大丈夫と唱へよう。念じよう。腹の中から自づからこの声が湧きおこるまで。
病んでいる人も悩んでいる人も、貧しい人も富んだ人も、丈夫な人も皆腹の底迄息を一杯に吸込んで、ウーム大丈夫と唱へよう。
今の日本で必要なものは金でも物でも人でも無い。智慧でも、知識でも、慾望でも無い。ウーム大丈夫 之だけだ。之の欠乏が今日の如く人を不安にし世の中を騒がしくしている。
ウーム大丈夫 この心に生くる者は必ず幸せになる。豊かになる。丈夫になる。元気になる。迷ふことは無い。たった一言でもよい。ウーム大丈夫と唱えて見よ。忽ち世界は暗より明に転ずるであらう。
昭和二十五年十二月
野 口 晴 哉
慌の時代にあっては何人も安心して生きている訳にはゆかない。新興宗教の流行も故無きではない。洪水、火事、台風、そういふも
のも次から次へと来る。
心を余程しっかり保っていないと、心が風に吹かれ、水に浸され、火で燃えてしまふ。心の中心にもしウーム大丈夫をおけば、
その心は火に焼けず水に溺れず、風に動じない。不景気も税金も冒すことが出来ない。多くの人の心からウーム大丈夫が去って、ナ
アニ大丈夫といふような根の無い空想への逃避や、マア大丈夫だらうといふ僥倖頼りしか無い今日にあっては、心の中に ウーム大丈夫 といふ中心をおく必要があること明瞭である。
「ウーム大丈夫」とは下腹に息を吸込んで丹田を満して大丈夫と念唱することである。之をくり返していると、何事かに出会ふと腹の中からウーム大丈夫と力強い言葉が湧いて来る。こうなれば何でも出来る。どんなことが起こっても不安は無い。どんなことであっても一番悪いのは絶望と不安と焦燥であって、中でも絶望は死への道である。
明るい太陽の光迄が灰色になってしまふ。貧も病も辛いものには相違ないが絶望程に人を痛めない。失敗も煩悶も、絶望が無ければ人を活す道となる。
正座して腹へウームと息を吸込んで丹田の気力を満して大丈夫と念唱しよう。
腹の中に大丈夫を容れて、心を静かに乱さず生くる事が全生の道である。大丈夫とは正を踏んでおそれず、義を見て退かず、愛に溺れず、慾に迷はず、天下の広居にあって天下大道を行ふ。浩然の気もこの裡にあり、綽々たる余裕もこの裡より生じ、泰山の動かざる信も又この裡にある。大丈夫とは不安無く悔無く、希望の輝ける理想の啓かるる伸び進んで止らざる人の心をいうのである。
それ故迷ふことあるとき、悩むことある時、苦しい時、乏しい時、虚なる時、不運なる時、ウーム大丈夫と腹の中で念唱して見よ。
忽ち迷ひ去り、悩み去り、苦去り、貧去り、虚去り、安心と希望と財福と健康が訪れる。大丈夫の腹にある時は心を乱すものは何ものも近づかない。天変地異も、虎狼も矢弾も、不幸も欠損も心に這入らない。
何故かといふと心は雰囲気を造り、雰囲気は物理的な力となってそれのもつはたらきを発揮する。繁盛の雰囲気は繁栄を造らうし、愉快な雰囲気は愉快な人を多くする。念ずれば現じ、思へば在る。人間は自分の境涯を支配している。境涯とはその思考の反影に他ならない。その思ふが如き人生に人は生きている。ウーム大丈夫と唱へよう。念じよう。腹の中から自づからこの声が湧きおこるまで。
病んでいる人も悩んでいる人も、貧しい人も富んだ人も、丈夫な人も皆腹の底迄息を一杯に吸込んで、ウーム大丈夫と唱へよう。
今の日本で必要なものは金でも物でも人でも無い。智慧でも、知識でも、慾望でも無い。ウーム大丈夫 之だけだ。之の欠乏が今日の如く人を不安にし世の中を騒がしくしている。
ウーム大丈夫 この心に生くる者は必ず幸せになる。豊かになる。丈夫になる。元気になる。迷ふことは無い。たった一言でもよい。ウーム大丈夫と唱えて見よ。忽ち世界は暗より明に転ずるであらう。
昭和二十五年十二月
野 口 晴 哉
2011年12月23日
2011年12月22日
happy 16min. film
Validation(承認)日本語字幕付きフルバージョン(16分で、ほっこりした気持ちになります。:-)
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=IIBzU9V_p8w
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=IIBzU9V_p8w
2011年12月18日
大地から湧き出る人
『原野では急激な動作をつつしまねばならないことを私は学んだ。そこで相手にする生きものたちは臆病で警戒心が強く、思いもかけないときに身をかわす能力の持ち主である。家畜は決して野性の動物のように静かにはできない。文明化した人間は静止する力を喪失しているので、野性の世界に受けいれてもらうためにはまず沈黙を学ばねばならない。だしぬけでない静かな動作の技術が、狩猟家にとっての第一教課である。』
イサク・ディネセン「アフリカの日々」を読んでいる。
20世紀初頭の独立まえのケニアでコーヒー農園を経営したデンマーク女性の文学作品。
彼女が見たアフリカの大地、自然、人々がじつにいきいきと描写してあり、当時のアフリカに行ってみたいと切に思う。
アフリカ人に対する見方が変わるとともに、じぶんの世界の見方、自身のあり方まで考える。
イサク・ディネセン「アフリカの日々」を読んでいる。
20世紀初頭の独立まえのケニアでコーヒー農園を経営したデンマーク女性の文学作品。
彼女が見たアフリカの大地、自然、人々がじつにいきいきと描写してあり、当時のアフリカに行ってみたいと切に思う。
アフリカ人に対する見方が変わるとともに、じぶんの世界の見方、自身のあり方まで考える。
2011年12月04日
「空」の態度
先だって、ヴィパッサナ瞑想のご紹介を少しアップさせていただいたが、今日は、ヴィパッサナ瞑想や座禅、仏教の教えなどでよく話題になる「空」について、ダイズ先生こと名古屋大学の高野氏のお話しがわかり易いかと、ここに引用させていただきます。
http://blog.goo.ne.jp/daizusensei/e/bef0657d650f1b8e2774868507f67090
祈りについて
いろいろな責任や義務や締め切りが、綱渡りをしつつ、ばたばたと一段落した。今日はなんだかエアポケットのような一日だった。少しおちついて心の中を振り返ってみると、せっぱつまった思いとか、プレッシャーとか、やはりいろいろと心の底に澱のようにたまっていることが分かる。
ただ、思ったこと、願ったことはあらかた実現している。今回の本の出版はその代表的なものだ。自分の研究成果について、学術書ではなく、一般の人たちに平易に語りかけるような本を書きたいとずっと思っていた。縁あってそのチャンスをいただくことができて、本当にありがたいことである。
もちろん、時々はたいへん意外なこと、心外なことが発生して、困惑することがある。しかしその場合でも、よくよく反省してみると、心の深いところで自分が望んでいた事態であることが多い。そういう時はわれながらどきっとする。
「思いもかけないことが次々に起こる世の中、思うことさえできたら実現できる。」これはかつての私の上司、熊澤峰夫名誉教授の言葉である。これは私の経験則でもある。ただこれにはこつがある。それは押しも引きもしない、ということだ。なにがなんでも実現しようと押したりしない。一方で、引いてあきらめたりしない。ニュートラルな立場で「保留する」態度を維持する。そうすればいつか実現する。
これは神秘的な話ではなくて、待っていればいつかことがおこる、というごく自明なことを言っているにすぎない。ただし、これがなかなか難しい。つい押してみて、ものごとがうまく運ばす、疲れて、そのうち引いてしまう。
押したり引いたりせずに、心の澱を掃除しながら、心静かに待っている・・・これが私の理解では、「空」の態度である。自分を完全に空っぽにすると、思いが実現する。実現しない時は、まだ空っぽさが足りない(?)のである。どこかに執着がある。プライドとか、こだわりとか、競争心とか、虚栄心とか。これを完全になくせば、ものごとは自然(ジネン)に進んで実現していく。逆説的であるが、これが私の経験則である。
この経験則を敷衍すれば、みんなが空っぽになって、ある共通の思いをもてば、それが社会全体で実現するのではないだろうか。そして、祈りというのは、そういうものなのではないだろうか。私は、祈るという行為は現実的な力を持つものと思う。
今この瞬間をより空っぽでいられるように過ごしたい。そして、いつもずっと祈り続けたい。
http://blog.goo.ne.jp/daizusensei/e/bef0657d650f1b8e2774868507f67090
祈りについて
いろいろな責任や義務や締め切りが、綱渡りをしつつ、ばたばたと一段落した。今日はなんだかエアポケットのような一日だった。少しおちついて心の中を振り返ってみると、せっぱつまった思いとか、プレッシャーとか、やはりいろいろと心の底に澱のようにたまっていることが分かる。
ただ、思ったこと、願ったことはあらかた実現している。今回の本の出版はその代表的なものだ。自分の研究成果について、学術書ではなく、一般の人たちに平易に語りかけるような本を書きたいとずっと思っていた。縁あってそのチャンスをいただくことができて、本当にありがたいことである。
もちろん、時々はたいへん意外なこと、心外なことが発生して、困惑することがある。しかしその場合でも、よくよく反省してみると、心の深いところで自分が望んでいた事態であることが多い。そういう時はわれながらどきっとする。
「思いもかけないことが次々に起こる世の中、思うことさえできたら実現できる。」これはかつての私の上司、熊澤峰夫名誉教授の言葉である。これは私の経験則でもある。ただこれにはこつがある。それは押しも引きもしない、ということだ。なにがなんでも実現しようと押したりしない。一方で、引いてあきらめたりしない。ニュートラルな立場で「保留する」態度を維持する。そうすればいつか実現する。
これは神秘的な話ではなくて、待っていればいつかことがおこる、というごく自明なことを言っているにすぎない。ただし、これがなかなか難しい。つい押してみて、ものごとがうまく運ばす、疲れて、そのうち引いてしまう。
押したり引いたりせずに、心の澱を掃除しながら、心静かに待っている・・・これが私の理解では、「空」の態度である。自分を完全に空っぽにすると、思いが実現する。実現しない時は、まだ空っぽさが足りない(?)のである。どこかに執着がある。プライドとか、こだわりとか、競争心とか、虚栄心とか。これを完全になくせば、ものごとは自然(ジネン)に進んで実現していく。逆説的であるが、これが私の経験則である。
この経験則を敷衍すれば、みんなが空っぽになって、ある共通の思いをもてば、それが社会全体で実現するのではないだろうか。そして、祈りというのは、そういうものなのではないだろうか。私は、祈るという行為は現実的な力を持つものと思う。
今この瞬間をより空っぽでいられるように過ごしたい。そして、いつもずっと祈り続けたい。
2011年12月01日
9/23 マックロードガンジ@北インド
一昨日の早朝、ニューデリーから未舗装の悪路を走る夜行バスに揺られて、ダラムサラの小さな村、マックロードガンジに着きました。チベット仏教のメインテンプルとダライラマ法王の住いがあり、亡命してきたチベット人が多く住む街です。宿を決めていなかったのですが、「まぁいいから、見に来い」という人は好さそうだけど小賢しそうなインド人のあとを付いていくと、商店街から谷に下る道に。これが大変急で細い道。それでも着くと、3階建てのコッテージのトップ、3室並んだペントハウス。ど広いバルコニーがついていて、目の前は、3000~4000m級の山と大空。山々の間に白く輝くヒマラヤも見えます。もう10日もすれば、ダライラマのティーチングに沢山人がやってくるが、うちは値上げしない、とか宣います。中級でしょうか。これも何かの縁と決めました。
毎朝未明に起きてシャワーを浴び洗濯をし、朝日が昇るのを拝んだ後、山々を眺めながら朝ご飯。支度をして、山歩きにでかけます。4,5時間歩いて下りてきて、地元の人たちが食べる dhaba とよばれる大衆食堂で遅めのランチです。三種類のカレーがお皿のごはんにかけてあり、小さなたまねぎのスライスがついています。おかわりもできます。これで、30ルピー。
30年前と比べるつもりはないのですが、あまりの物価の違いについだまされているのではないかと初めは思ってしまいました。ばばのたわごとですが、30年前は、チャイが50パイサか1ルピーでした。それがいまや、7 -15ルピー。なにもかも高い。インド人でさえ、この10年15年の変化はあんまりだと言っていました。経済成長している国の勢いのすさまじさを感じます。
みんなよく働きます。エネルギッシュです。小さな商売を作っては、俺の店って胸を張って商売しています。道路を走るたくさんの車やオートバイ。それと一緒に走っている大きな荷物を乗せた自転車、オート三輪リキシャ。みんながんばってる! 感心します。こういう熱い一所懸命さを文明国は忘れてるかも。 路地裏や人の暮らしの生活写真を撮るのが面白くなってきていますが、あまりしげしげ撮るのもわるい気がすることも。
お昼ごはんのあと、歩いてたら、路上に人が集まりはじめていたので、これはひょっとしてと並んだら、案の定、ダライラマ法王が重要なモンクとのミーティングにみえていて、その帰りのお姿を拝むために、みんな並んでいました。1時間ばかし暑いなか、立ちんぼう。車中に拝見することができました。
ここは、ヒマーチャル・プラデッシュ州。観光客が捨てていくペットボトルやごみで山が汚れるのを防ぐために、買い物してもビニール袋に入れるのは禁止、紙包装のみです。グリーン環境活動センターで、持って行った水ボトルに煮沸されフィルターされた水を買いました。
隣のチベット人の大声のスカイプがうるさすぎる。おしゃべり好きなインド人が携帯持ったものだから、どんな山道でも大声でしゃべくりまくってます。そうやって、お互い情報共有しあってるとはいえ、たまりません。そろそろ時間切れ。また。
毎朝未明に起きてシャワーを浴び洗濯をし、朝日が昇るのを拝んだ後、山々を眺めながら朝ご飯。支度をして、山歩きにでかけます。4,5時間歩いて下りてきて、地元の人たちが食べる dhaba とよばれる大衆食堂で遅めのランチです。三種類のカレーがお皿のごはんにかけてあり、小さなたまねぎのスライスがついています。おかわりもできます。これで、30ルピー。
30年前と比べるつもりはないのですが、あまりの物価の違いについだまされているのではないかと初めは思ってしまいました。ばばのたわごとですが、30年前は、チャイが50パイサか1ルピーでした。それがいまや、7 -15ルピー。なにもかも高い。インド人でさえ、この10年15年の変化はあんまりだと言っていました。経済成長している国の勢いのすさまじさを感じます。
みんなよく働きます。エネルギッシュです。小さな商売を作っては、俺の店って胸を張って商売しています。道路を走るたくさんの車やオートバイ。それと一緒に走っている大きな荷物を乗せた自転車、オート三輪リキシャ。みんながんばってる! 感心します。こういう熱い一所懸命さを文明国は忘れてるかも。 路地裏や人の暮らしの生活写真を撮るのが面白くなってきていますが、あまりしげしげ撮るのもわるい気がすることも。
お昼ごはんのあと、歩いてたら、路上に人が集まりはじめていたので、これはひょっとしてと並んだら、案の定、ダライラマ法王が重要なモンクとのミーティングにみえていて、その帰りのお姿を拝むために、みんな並んでいました。1時間ばかし暑いなか、立ちんぼう。車中に拝見することができました。
ここは、ヒマーチャル・プラデッシュ州。観光客が捨てていくペットボトルやごみで山が汚れるのを防ぐために、買い物してもビニール袋に入れるのは禁止、紙包装のみです。グリーン環境活動センターで、持って行った水ボトルに煮沸されフィルターされた水を買いました。
隣のチベット人の大声のスカイプがうるさすぎる。おしゃべり好きなインド人が携帯持ったものだから、どんな山道でも大声でしゃべくりまくってます。そうやって、お互い情報共有しあってるとはいえ、たまりません。そろそろ時間切れ。また。